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小泉進次郎 引き裂かれた母親と政治家の原点

小泉進次郎 引き離された母親と政治家の原点




国会内の廊下をいつも小走りに移動している。後ろから呼び止めても、なかなか立ち止まることはない。

「久しぶりですね」

私が、議院運営委員会の控室から出てきた小泉進次郎に声をかけたのは、師走に入ったばかりの12月初めのことだった。

「ああどうも。ご無沙汰しています」

「最近は被災地に通ってるらしいですね。すっかり議員も板について」

「いやあまだまだですよ。はじめてお会いしてもう3年? 4年ですかね。そうだ。麹町の事務所でしたよね。そうか。3年前だ。そうそう」

彼の記憶力に思わず舌を巻いた。仕事柄、連日、何百何千と人と会い握手する中にあっても、その瞬間を覚えている。初当選のあと、自民党が野党に転落したこともあって、まともに進次郎には会っていなかったのに、彼は私と名刺交換した場所も日時も記憶していた?。

選挙の指南役は、あの男

「進次郎さん。ご挨拶して」

「はい!」

私がはじめて彼に会ったのは、思いもよらぬ場所で、いや、あり得ない男からの紹介だった。まさに偶然である。このとき私は直感した?小泉進次郎の胆力は相当なものだぞ?と。

ときは、小泉純一郎元首相が政界からの引退を公表し、次男の進次郎が後継表明した直後の2008年11月のこと。自民党政権が迷走し、いつ解散に打って出てもおかしくないこの時期。進次郎は選挙戦に向けて準備に入っていた。

「小泉進次郎です。よろしくお願いします」

そう言って浅黒く爽やかな笑顔で名刺を差し出してきた。想像より背はちょっと低かった。

進次郎を紹介した、この“あり得ない男”こそ、父・純一郎の側近中の側近として汚れ役を演じ続けた飯島勲元首相秘書官である。

この日、私は所用で飯島を東京・麹町にある雑居ビルの事務所に訪ねたのだが、そこに進次郎がいたのだ。意外というよりも仰天した。

「父親の秘書だった人物のところに息子がいただけなのに何をそんなに驚くのか」と思われるかもしれない。だが、そうではないのだ。

これには少々説明が必要だろう。

通常ならば、親が子に選挙地盤を譲るときには父親のスタッフが手取り足取り面倒を見る。そう考えれば、飯島がマンツーマンで後継者の進次郎を指導していたとしてもたしかに不思議ではない。しかし、このときの飯島はすでに小泉家とは完全な“決別”状態にあった。

長年、純一郎を支えた飯島は、「側近は二君に仕えず」を公言し、純一郎の引退表明のあと己の美学を貫き、秘書稼業から足を洗った。しかしそれ以上に複雑な事情がある。

飯島は障害のある兄弟を抱え、幼いころから新聞配達で家計を支えるなど、貧困や差別の中で育ってきた苦労人だ。一方、小泉家といえば代々大物政治家を輩出した家柄。もともと両者は水と油のような関係なのである。

とくに純一郎を溺愛した姉・信子は、そんな飯島を心底では決して受け入れなかったという。純一郎の事務所では、信子と飯島が右と左の隅に離れて座り、信子は一切カネに関する事柄は飯島に扱わせなかったほどだ。実際、飯島は「純一郎の引退は、同時に自分が小泉家から去るときだ」と早くから決めていた。

そうやって完全に縁を切ったはずの飯島のもとに、後継者の進次郎がいたのである。

名刺交換したあと、私は飯島と応接テーブルで話を始めたのだが、進次郎は事務所の片隅に置かれたテレビ前のソファに座り、党首討論の中継に見入っていた。しばらくして私との話が途切れると、飯島は進次郎に声をかけた。

「進次郎さん。どんな具合ですかね、党首討論は」

その口調はまるで試験官が問いかけるような、感情のない、どちらかというと厳しめだった。

当時の首相は麻生太郎、民主党の代表は小沢一郎である。進次郎が答える。

「麻生さんは差し込まれていますね。思い切りのいい言葉がありません。(言葉を)選び過ぎて、『らしく』ないですよ。小沢さんのほうが具体的で理路整然としてます。小沢さんの勝ちだと思います」

帰り際に、私はこっそり飯島に聞いた。

「(進次郎の)面倒を見て欲しいと小泉(純一郎)さんから頼まれたんですか? もう決別したと思っていたのに、飯島さん、陰ではちゃんと純一郎さんとつながってるんですね」

飯島は即座に否定した。

「まさか。私はもう小泉家とは関係ありません」

「じゃあ、どうして彼が?」

「進次郎さんご自身からお見えになってるんですよ。私なんか、もはやろくなことはできないけど、私が仕えた君主の御子息ですからね。できるかぎり、お教えできることがあるんだったらと思って」

世襲議員は、ほぼ例外なく父親の代からのスタッフや不文律を疎ましく思うようになるものだ。しかも、自分の家とは縁を切った男である。だが、そんな事情はお構いなしに、進次郎は自らの意思で飯島のふところに飛び込んだ。むろん選挙に向けて指南を求めてのことだ。

後日、私は小泉家に詳しい地元選挙区・横須賀市の年配の支援者に訊いた。

「進次郎さんは長く飯島さんを見てきた。そして、出馬するならまずこの人に教えを乞おうと自分で決断したんでしょう。いま飯島さんのところに出入りなんかしたら、父親がどう思うか、小泉家でいまだ絶大な力を持つ伯母の信子さんがどう感じるか。でも、進次郎さんは、勝つためには飯島さんの指導が一番と考え、そう決めたら筋を通して飛び込んだ。胆力? そうですね、あれでいて腹は相当据わってますね」

孤独から生まれた胆力

「見かけによらず、進次郎はタフだ」「胆力がある」という話を永田町の政治家からよく耳にする。「父親のDNAを受け継いだ」という声もあれば、「小泉家は選挙に強いから好き勝手にできるだけ」と語る者もある。

私も進次郎はタフだと思う。ただし、彼のタフさの根っこにあるのは、実はもっとドロドロとしたもの、彼の外見や華やかさとはまったく逆の不遇やコンプレックスではないか、そして、それがバネとなって、あの胆力が生まれたのではないかと思っている。

私の見方には確信めいたものがある。それは、前出の支援者をはじめ、永田町の外側にいる進次郎の関係者たちの話をいくつも聞くことができたからだ。

これまで人間としての政治家を取材してきてしばしば感じるのだが、人の生い立ちにおける不幸感やコンプレックスというものは、“絶対的な視点”から捉えなければ完全には理解できない。相対的?他者との比較?で見れば幸せそうに見えても、人間の本音は、その人自身の境遇や半生をじっくりと見なければ決してわからない。絶対的視点で捉える、つまり、その人間が生まれ育った環境の中で、長い時間をかけて醸成されたものを見なければならない。

政治家の本質はその点にこそあると思う。

進次郎の場合、生まれ育った環境とは小泉家だ。小泉家の中で、小泉家の人間にしかわからないことがあるはずだ。そして、その中で進次郎は恵まれていたと言えるのだろうか。「代々続いた政治家一族」という境遇だけで幸せだったと言えるのだろうか。

周知のとおり、父・純一郎と進次郎の生母は離婚している。当時2歳ほどだった進次郎は、伯母にあたる信子や純一郎の方針により、生母に会うことは一切許されなかった。

政治家である父親が家にいることなど皆無。その父も、地元に帰ってくれば常に利益誘導を欲する輩が周りを取り巻く。


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支援者のひとりが語る。

「実の母が家を出ていくときに、進次郎さんは泣きじゃくって暴れたらしい。信子さんがぴしゃりとした態度で進次郎さんを引き離した。それからずっと会うことが許されなかったんです。母親代わりは信子さんやお手伝いさん。母親の愛情をまったく知らずに育ったということですよ。お兄さんの孝太郎さんは優等生タイプ。父はあの調子。孤独だったでしょうね」

信子にしてみれば、心を鬼にしての行動だったろう。ただ、人気政治家の父と、早くから芸能界を目指していた兄の孝太郎?華やかな2人の陰で進次郎は大学留年も経験するなど、「フラフラした生活を送っていた時期もあった」(支援者)という。

だからこそ、飯島が小泉家に入ってきたとき、進次郎には異質に映ったはずだ。飯島はその生い立ちから、孤独やコンプレックスのような、人間の底辺からの業を知り尽くしている。小泉家で孤独を味わってきた進次郎がどことなく彼に惹かれたのも頷ける。あえて大胆な表現をすれば、「閉ざされた生活空間での初めての友達」だったのかもしれない。

そういえば飯島は、後継問題が話題になり始めたころから、進次郎をメディア取材から必死に守ろうとした。進次郎の姿をこっそり撮ろうとしたカメラマンを警察官に取り押さえさせたほどだ。なるほど、出馬前に飯島のもとに飛び込んでいったのは「飯島さんにあれこれ教えてもらいたいというのはもちろんだが、親近感を持っていたのかもしれない」(支援者)のである。

孤独に小泉家の中で育った進次郎にしかわからないものがある。それらがすべてバネになって、いまの進次郎の本質がある。タフさがある。

私が進次郎と話しているときに感じる言葉の端々の自信や、永田町でときおり彼が見せる大胆な行動には、パフォーマンスなどといった軽さはない。相当の逆境にいなければ芽生えなかったであろう資質を感じるのである。

進次郎はいま

小泉進次郎はいま何をしているのか?。永田町を拠点に取材している私は、周りからよくこう聞かれる。

答えは簡単だ。きわめて真面目に政治家として仕事をしている。1年生の議員らしく。それだけのことだ。あえて言えば、他の1年生よりは汗をかき、勉強し、身の回りの小さな政策を実現していると思う。

ただ、世間やメディアはそれでは物足りないのだ。小泉純一郎の後継者、スター不在の永田町にあって、彼にもっと目立って欲しいのだ。政策などではなく、ちょっと爽快で気の利いたワンフレーズを求める不純な動機である。

かくてメディアは過熱し、刺激的なひと言を取ろうと、ことあるごとに彼を国会内の廊下でつかまえては質問をぶつける。取材記者が立ち話で囲む、いわゆる「ぶら下がり取材」である。

2011年6月には、国会内の廊下でこんな質問がテレビ記者から飛んだ。

「AKB48の総選挙についてどう思われますか」

進次郎は、一瞬戸惑いの表情を見せたがこう答えた。

「うーん。こんなときにね、政治家がそんな質問にコメントしたらねえ。でも、とんでもないところから弾を撃ちますねえ」

下らない質問だ。だが進次郎は怒ることもなくそうかわした。それでも、テレビ各社はそのコメントを使う。そんな進次郎を、多くの人々がメディアを通じて知る。そしてそこから政治家としての資質や能力をイメージする。

だが、永田町の現場を見ているかぎり、進次郎の本当の姿は違う。ごく地味に、ごく当たり前に、ごく真面目に政治活動をしているのだ。

たとえば、メディアではセンセーショナルな部分だけが報じられる国会の委員会でのやりとりも、質問のすべてを聞けばそれがわかる。

2011年9月には、野田佳彦首相を相手に進次郎は「被災地の失業手当問題」について疑問をぶつけた。

被災地で失業手当を受給する際、たとえば津波で崩壊した会社の片付けを社員が自発的に行っても失業手当は支給されるが、会社側が「業務」として社員に指示した場合には支給されないなど、一部曖昧な運用がなされていた。このような現状はおかしい、特例で考えるべきだという進次郎の意見に、首相は「極めて建設的な提言」とこれを受け入れ、わずか1週間で改善された。決して派手さはないが、進次郎はこうして着実に自分の仕事をしているのだ。

国会で質問に立つとき、進次郎は国会対策委員会室や自らの事務所にひとり閉じこもる。「相当詰めて勉強している」(自民党中堅議員)。党の委員会理事のアドバイスも熱心に聞く。

「進次郎君には、このテーマでと大枠を指示します。彼は何にでも耳を傾ける。実際の質問ではポイントを外さないのはもちろん、必ず彼のオリジナルな視点や言葉を入れている。あれは相当勉強しているよ」(閣僚経験のある理事)

私は、国会内で歩きながら進次郎に直接問うたことがある。委員会での質問や批判がうまいが、飯島のような指南役が誰かいるのではないか、と。だが、彼の答えはそっけなかった。

「自分でやってますよ。当たり前でしょう。誰かに相談する話ですか(苦笑)」

「野田さんはチャンスを逃した」

2011年12月、私は進次郎と一対一でじっくりと立ち話をする機会があった。ぶら下がり取材で、政治に関係なく少しでも面白いことを言わせようとする一部の記者の手法に不満はないのかと、あえてストレートに訊いてみた。

「私は、ぶら下がりは絶対に断らないようにしていますよ。自分を鍛えるいい機会なんですよ。ぶら下がりって突拍子もない質問がしょっちゅう飛んできますよね。瞬発力が必要です。政治家は言葉でどう発信していくかが大事。とっさに訊かれてどう答えれば伝わるのか、自問自答してすぐに答えなければならない」

?しかし、ただただ面白いひと言を狙う質問も数多く浴びせられる。

「突然ね(笑)。この前もAKBとかね。でもそれに答えられなかったら失格です。政治家として。だから日頃からアンテナをすごく張りますよ。いろんなところにね。情報収集して、いろんな基礎知識も詰め込んで、勉強して。そうしないと答えられなくなっちゃう(笑)。私はぶら下がりは、自分のためには凄くいいと思っていますから受けますよ」

 そして話は野田首相に飛んだ。

「そういう意味で、どうして野田さんはぶら下がりをやらないんですかね。やった方がいいんですよ」

野田首相の“ぶら下がり拒否”については賛否あるが、私も進次郎の意見に賛成である。記者の後ろには国民がいる。国のトップリーダーが、国民にメッセージを発信することは義務だ。

政府側にとっては危機管理という意味もある。物事に火がつかぬうちに、首相のひと言でこれを防いだり有利な流れを作ったりもできる。国民にも首相側にも、ともに有効なツールなのだ。小泉純一郎はこれを知り尽くしていたからこそ毎日ぶら下がりに応じた。

「父は父としてどう考えていたかわかりませんがね。確かに危機管理という側面はありますよね。でも、野田さん、いまから始めてももう遅い。いまからやったって、なんだかんだ言われる。急に始めたのは裏があるとかね。チャンスを逃しましたよね」

政治とは「人を助ける」こと

そんな進次郎が、いま取り憑かれたように打ち込んでいることがある。東日本大震災で大きく傷ついた東北の被災地のために「政治は何をすべきか」をずっと考え続けているのだ。

進次郎の被災地通いは、震災から9ヵ月を過ぎたいまも頻繁に続いている。公務や党務ではない。空いている土日を使い、自費で通う。私が進次郎と話をした12月初頭にも「今週末も岩手と(宮城の)女川に行きますよ」と話していた。

地震発生直後の3月末、進次郎はたったひとりで被災地に入った。地元で灯油などをかき集めて足を運んだのだ。被害の大きさに言葉も出なかったが、そこで実感したのは、「ひとりひとりの人間」だったという。

「避難所生活の中で物もない。町はガレキの山。津波の直後でしたから。でも、私なんかでも、行けば、『テレビでしか見たことないけどね。来てくれたんですね』と。ひとりひとりと握手をしたんですよ。手が温かい。ぐっと握り締めてくる。『頑張ってください』とか『一緒に頑張りましょうね』と言ったけど、なんと言うか、本当に心が苦しくなったと言うか。ひとりひとり違うんだということを本当に意識したんです」

そこから、政治家としての彼の自問自答が始まった。政治は何をすべきかというテーマだ。

「いま一番やろうとして動いているのが広域のガレキ問題、処理ですね。現地は大変です。ほかの地域が受け入れなければ何も進まないのに受け入れるところが少ない。検査をして放射線の心配もないというのに受け入れない。

 党レベルでは難しい。選挙区によっても事情や温度差がある。だから小さいかもしれないけど独自でやってるんです。神奈川県の県議や選挙区で民間の方と話しながら、どこか受け入れる場所はないか探しています。政党としてやれないから、じゃあやらないというのはおかしい。私ができることをやればいいじゃないですか。ひとりでもやればいいんです。(受け入れは)もう少しのところまで来ているんですが……」

進次郎のこうした思いは地元でも少しずつ実を結んでいる。たとえば彼の後援会が中心となり、2011年5月には早くも「会津若松市応援店舗」が横須賀市内にオープンしている(両市は友好都市として交流が深い)。

そして、「被災地に行くたびに、政治家としての意識がガラッと変わっていった」と言う。

「政治とは実は簡単なことなんですね。困っている人を助ける。ただその一点なんです。それがすべてだとわかりました。そのために自分に何ができるか、実行できるかということなんです。たとえばガレキ処理だって、自分の選挙区の仲間たちと相談しながら実行する。そういうことだと思うんです。うん。簡単なことなんです。困っている人のために政治があるんです」

進次郎は、被災地で被災者ひとりひとりと手を握り合った。それは、選挙区や全国各地の遊説で、大歓声とともに集まってくる人々のそれとは違った。そしてそこからも、政治家としての貴重な経験や示唆を得たという。

「被災地で握手してね、どの手も全部違う。ひとりひとりに、それぞれの訴えがある。こうして欲しい、ああして欲しいと。そうやって選挙区に戻ると、同じようにいろんなことを考えるようになりましたね。小さなお祭りや集会、餅つきとかね。あるでしょ。そういうところに足繁く通って、ひとりひとりと握手して、困っていることを聞いて……。それを解決するのが政治なんだなあと。票集めのために小さなお祭りを回っているんじゃなく、ひとりひとりの声を聞くために回るんだと。被災地が教えてくれたことは、私にとってものすごく大きい。教えてもらいましたね」

前述した失業手当問題も、進次郎が被災地を回り、津波被害にあった事務所を片付けている小さな会社に飛び込み、社長や社員らひとりひとりと話したときに知ったことだったという。

「どんな小さな集落にも分け入って辻立ちしろ。ひとりひとりと握手して話を聞け」とは、かつては故田中角栄、現在では小沢一郎が若手議員に口を酸っぱくして言った台詞だ。だが、若手の中には「自分は何ヵ所回った」などと、選挙に勝つ手段だと理解している者が多い。

違う。手段ではなく政治の原点なのだ。そんな若手の声を聞いた角栄は「まあ回らないよりはいい。いつかわかるだろう」と苦笑していたというが、進次郎は、こうした政治の原点をひとつひとつ被災地から感じ取っている。

「あとはずっと継続していくことなんです。だから来週も通うんです。ライフワークですね。そして、10年後の東北を想像するんです。ある程度のところまで復興が出来て、そのときに地元の人ひとりひとりと酒を酌み交わしたい。ああ、ここまでやってきたね、と。10年後を想像するんです。そして、そのためにいま何をすればいいかをずっと考えています」

首相待望論には浮かれず

嫉妬や怨嗟が渦巻く永田町は、隙あらば世間の注目を集める仲間を蹴落とそうとする政治家であふれかえっている。だが、進次郎を罵倒する声や陰口を、私はこれまで聞いたことがない。

「できすぎだ。あいつはいい」(麻生太郎元首相)、「いつか必ず総理になる」(石破茂前自民党政調会長)と、強面の先輩らにも一目置かれている。自民党の職員からも「ブロック大会の翌朝には我々のような裏方にまで、わざわざ電話で礼を言ってくる。若くしてあの気配りは何なんだ」(八木洋治自民党都連事務局長)と絶賛だ。

「1年生議員の範疇を決して越えないように注意しながら、“最高の1年生議員”を目指している。だから同輩も先輩も誰も文句が言えない」(自民党ベテラン議員)のだ。



進次郎とサシでの立ち話が終わりに近づいたころ、自民党内のベテランから若手、さらには党の地方組織や敵方である民主党の若手議員などからも、「将来の首相候補」として進次郎の名前が挙がっていると伝えた。

「そんなことをおっしゃっている方たちはきっと恥をかきますよ(笑)。あいつはそれほどの奴じゃなかったって(笑)」

即座にぴしゃりと言い切った。

評価は彼の耳にも入っているはずだ。外へ出れば人々の圧倒的な手応えも感じているだろう。だが、どこまでも謙虚さをわきまえている。彼の政治活動には、駆け出し議員という則をあえて越えない意思すら感じる。政治家として、着実に積み上げていこうとする姿勢だ。

中途半端な首相待望論などに浮かれない、動じないからこそ、さらなる評価を得て待望論が高まる。いわば「正のスパイラル」だ。

もうひとつ、気になっていたことを聞いてみた。父親とは頻繁に連絡を取り合って帝王学や心得についてアドバイスを受けているのか、と。

「変なこと聞きますねえ(笑)。普通の親子ですよ。じゃあ。失礼します」

普通の親子だから連絡を取り合っているのかいないのか、純一郎の入れ知恵があるのかないのか?結局さっぱりわからない。でも、妙に取材者が訊きたいことを諦めてしまうような、これもまた巧妙な切り返しだった。

首相官邸の主として、毎日ぶら下がり取材に応じ、ときには正論を吐き、ときには切り返しながら記者を煙に巻く?そんな進次郎の姿がふと浮かんだ。



小泉進次郎氏の素顔…元フリーターから後継者に
ZAKZAK 2008/09/29

箔付けで“海外留学”“コネ就職”も

 小泉純一郎元首相(66)が引退表明とともに後継者に指名した次男の進次郎氏(27)。俳優の長男、孝太郎氏(30)ほどには公の場に登場しなかったが、水面下で着々と世襲の準備は進められていた。少年時代から父親譲りの「勝負師」の片鱗を見せながら、フリーターや海外生活を経て、変身を遂げたイケメンジュニアの素顔に迫った。
 小泉氏は25日、神奈川県横須賀市の地元事務所に一部県議を集めて引退を表明し、「進次郎を出馬させたい」と後継者に指名した。進次郎氏は「父の意を継いで厳しい戦いに挑んでいきたい。引き続き支援をお願いします」とあいさつ。父、小泉氏は「自分は27歳で衆院選に挑戦した。進次郎も27歳。しっかりやれるはずだ」と語ったという。

 各メディアはサプライズ引退として大きく報じたが、進次郎氏と長年ソフトボール仲間だという地元男性(29)は特に驚きもなく、「その時期がきたんだな」と受け止めたという。

 「昨年初めの出初め式に叔父の正也氏(=小泉氏の弟で地元秘書)に代わって出席するなど、後継への布石を打っていた。跡を継ぐことは地元では公になっていた」。今年初めに「選挙出るの」と声をかけると、「まだ早いですよ。時期が来たら」と答えたという。

 地元小学校の校長は「昨年秋の運動会に小泉元首相と来て大騒ぎになったが、周囲は『進次郎君に地盤を引き継ぐんだ』と公然と話していた」と語った。 

幼なじみの男性(28)は「根っからのスポーツマンで、今でもソフトボールチームに顔を出したり、ジムに通ったり、マラソンに出る肉体派。父親が首相になったころから本人も後継者を意識していたんじゃないか」と振り返った。

【苦肉の策「海外留学で箔」】

 孝太郎氏と甲乙つけ難いイケメンだが、近所では「兄弟とも母親似」といわれた。近所の主婦(51)は「おっとりした孝太郎君に対して進次郎君はしっかりしていた」と話し、こんなエピソードを披露した。

 「私の息子はソフトボールが得意じゃなく、やさしい孝太郎君は打ちやすいボールをわざと投げたが、進次郎君は勝負に徹するタイプで、手加減することがなかった。こんなところが父親に似て『純ちゃんの後継者は進次郎君じゃないか』といわれてきた」

 地元では早くから後継者とみられたが、成人になっても、えりが伸びただらしないTシャツを着て人前に出ることも。「本当に(後継者は)進次郎で大丈夫か」と家族会議まで開かれたという。だが、そこで出たのは「孝太郎も役者として乗ってきたことだし…」という意見。

 最終的に導き出されたのは、進次郎氏を海外に出して箔を付けさせる苦肉の策だった。

【米でコネ就職、跡継ぐ決意】

 進次郎氏は大学卒業後、フリーターをしながら英語を学び、米名門コロンビア大に留学した。その後、ワシントンのシンクタンク「戦略国際問題研究所」(CSIS)に補助調査員として就職した。

 CSISはクリントン、ブッシュ両政権の元幹部が勤務するほか、日本から官僚が出向する日米両政府と緊密な関係にある。小泉氏と旧知の米国家安全保障会議アジア上級部長だったマイケル・グリーン氏がCSIS日本部長に就任しただけにコネ就職が取りざたされた。

 政治評論家の有馬晴海氏は「(現職首相の)小泉氏の息子というのは受け入れ側にとって非常に(メリットが)大きいことを考えると、コネと考えるしかない」と指摘。「小泉氏がいちいち関与しているとは言わないが、小泉家が戦略的に進次郎氏を再生させる道をつくり、それが成功したといえるだろう」と分析する。

 昨年5月、CSISを訪れた自民党の西村康稔衆院議員は「さわやかな好青年という印象。現場の段取りを仕切っていて、父親のような激しさは抑えていたが、弁舌明快な物言いはうり二つ。『次の仕事は若いヤツでやれ』という父のメッセージを受け止め、跡を継ぐという決意の硬さが感じられた」と語った。

 日本の政治家がCSISを訪れるごとに進次郎氏が現れ、「できる小泉後継者」を演出する場面が現出したのだ。華麗な変身を遂げた次男に世襲の道が開かれた瞬間だった。

 進次郎氏は昨年、米国から帰国し、小泉氏の秘書に就任。精力的に地元の会合に顔を出すなど、地盤固めを進めてきた。

 地元では「名門小泉家では世襲は自然」という支持者がいる一方で、「次男のウワサは全く聞かない」という声も多い。ある会社員(38)は「小泉さんは地元のお飾り的なヒーロー。誰が後継者になろうと関心はない」と話す。

 小泉氏と進次郎氏は27日、支援者を集めた会合で正式に後継を表明する。小泉人気に乗って難なく4代目政治家となるのか。世襲を潔しとしない逆風のなか、父親と同じく初選挙で落選の苦汁をなめるのか。間もなく火ぶたが切られるであろう総選挙で答えが出る。

















小泉進次郎がト●レでオンナと●したホストクラブの当時の場所







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